リカちゃん、と、頼りなげな声が私の背中にぶつかって、落ちた。頼りなげ、と言ってやるのは幼馴染の情みたいなもので、実際に彼は頼りないと思う。万が一私が遺産相続争いにでも巻き込まれたりしたら、彼だとて、きっと私の支えになってくれるだろうが、私は両親も祖父母も健在で、今のところ遺産が巡ってくる気配は無い。
つまり彼は、私の望む彼氏として、期待に応えてはくれない、というだけのことだった。私が「年頃の娘」の平均的な感性かどうかは分からないから、彼が平均的な彼氏像にそぐわないかどうかも分からない、従って、罪は私と彼のどちらにより多く分配されているかも分からない。
「ごめんね、彼氏と約束してたんだった」
追いかけてくる気配は無い。あの、真っ黒な目でぼんやり私の背中を見ているんだろうとは想像がつく。裏切られた、なんて大層な感想もないだろう、きっと、意味が分からない、という顔をしているんだろう。疑問符が頭の上に三つ、そんな顔を。
直接庭へ回って縁側で話をしていたから、出て行くのも当然庭から玄関へ、一月の午後の日差しは柔らかく、吹いてもない風を肩で切って歩いた。
ちょっとでも彼が傷つけばいいと思った。ダメージを負わせたいんじゃなくて、彼の気にかかればいいのに、という、言葉にしてみると何ともセンチメンタルな。友人各位からは「気が強い」「芯が通り過ぎ」「妥協ができない」「頑固」と散々な言われような私の、割と女子っぽい部分じゃないかなと思う。こんなところでだけ女子っぽくてもしょうがないんだけど。
成績優秀でいつも私のことを気に掛けてくれる優しい幼馴染み、タラちゃんは、いつの間にか私を側に置く事で心の平穏を得ている、ご隠居さんのような人になっていた。
彼の変化はいつ訪れたんだろうか。私が音大受験に奮闘している間だったかもしれないし、もっと、一瞬の間の出来事だったかもしれない。
自分の欲しいもの、自分がしたいこと、そういう欲望に駆られるがまま走っている私にご隠居さんのような彼は不要なのだ。彼にとって私が不要である以上に、私の方が欲していない、と思っていないと、少しだけつらかった。つらくなるほど、私と彼は長い間一緒にいた。
駅前に着くと、自動販売機の前に見慣れた背中があった。駆け寄って思い切り背中を叩くと、激しく咽てしまった。
「げほ、うぅ、…リカちゃん、もうちょっと優しくコンタクトとってくれないかな」
タラちゃんには絶対やらなかったことを、私はこの人にしてしまう。
「何で優しくしなきゃいけないの」
「何でって、仮にも彼氏なんでしょ、俺…」
「仮よ」
「仮ですか。別れ話、してきたんじゃないの?」
言いながら硬い手が私のバッグを持ち、もう片方の手が私の背に回って改札の方へ促した。さりげなさの極み、みたいな対応に、これがタラちゃんの従兄弟だというのだから…と比べずにいられない。
「彼氏と待ち合わせしてる、って言ってきた」
「俺が彼氏って言ってないの?」
「言ってない。私には私の彼氏がイクラちゃんである必要があるし、イクラちゃんも私である必要があるけど、タラちゃんにとって私の今の彼氏が、っていうか横取りした相手が、イクラちゃんだって知る必要がない」
ずるいなあ、とイクラちゃんは小さな声で笑った。
ずるい。誰が、とは言わなかった。
私はずるいから会って傷つく言葉を残す。イクラちゃんはずるいから会わずに笑っている。タラちゃんはずるいから確かめず追いかけずいる。
結局のところ傷つけたいと思っても、嫌われるのは嫌なのだ。私たち三人のつかず離れずの関係は、あんまり微笑ましいものじゃなくて、時間で劣化した友情の残骸なのだと思った。
あの縁側で彼の隣に知らない女の子が座るのは、死んでも見たくない。でもイクラちゃんなら許さないこともない。しょうがない、と思える。それはイクラちゃんがタラちゃんの従兄弟だから、男だからってことじゃなくて、もっとどうしようもないものだ。きっとイクラちゃんもそう思っていて、だから私をそそのかしたりしたんだろう。
私たちはずるい。もう、幼いからという言い訳ももうすぐ効かなくなる。
「新宿行って、リカちゃんの用事が済んでからゴハン、でいい?」
「うん」
「何食べよっか」
「洋食」
「じゃースパゲッティで」
「いいよ」
「都庁って、何しに行くの?」
乗客も少ない昼の各駅停車、さして大きな声でもない私たちのやりとりは誰も聞いていない。
「パスポートの更新」
「どこ行くの?」
「欧州」
「おうしゅう…」
「の、イタリア」
「え」
「に、留学」
「…仮にも彼氏なのに」
イクラちゃんは、不貞腐れたような声を作ってくれたが、それが彼の本心ではないことくらいわかる。もうすぐ拮抗は崩れるのだ、イクラちゃんはそれをちゃんと気付いた、それだけ。
タラちゃんなんか嫌い。私のために動いてくれないから嫌い。
イクラちゃんなんか嫌い。私を使ってタラちゃんの環境整備するから嫌い。
「あーあ、ほんっとむかつく幼馴染だ」
「結構尽くしてると思いますけどね、俺もタラちゃんも」
「どーだか」
隣に座るイクラちゃんの、私より高い位置にある肩が揺れた。笑っている、腹立たしいのと同じくらい、好きだと思った。
「タラちゃん、どうなるかな」
「最愛の彼女に旅立たれるんだから、一層腑抜けになるんじゃないの」
「旅立つって、そんな人を死んだみたいに」
「同じことだよ、タラちゃんは会ってない人のことなんて構ってくれない。手に届く範囲の幸せだけを一生大事にしてくんだ、きっと」
イクラちゃんのいつにないロマンチックな物言いを、私は黙殺した。全く同意するしかなかったから、言葉を選ぶのも面倒だったのだ。