妹が「サンダルサンダルサンダルが欲しいよーキョン君サンダル!ビーチサンダルじゃないサンダル!」と喚いていた。昨晩のことだ。
「一回言えば分かる」
俺は風呂上り、ナイター中継を見ながら九時にもなってないのにやたらと眠たい、というときだった。
「いっぱい欲しいときはいっぱい言ってみたら、って」
言いながらテレビを背にして俺の正面に立ちはだかる妹。おい、画面見えないぞ、見えないと後はもう眠くなる一方なんだが。
「…誰が」
「ハルにゃん」
どのタイミングで妹とハルヒがそんな話をしたのか分からないが、こいつはどうにもハルヒに懐いている。いや、ハルヒ限定じゃなくて、ありとあらゆる人間に懐ける能力を持った奴なのかもしれない、というくらい、俺の友人知人にも全力で遊びにかかろうとする。それが良い場合もあれば、悪い場合もある。たとえば、
「ハルヒの言うこと為すこと見本にしてたら、お前はゆくゆくはモンスター何とかになるぞ」
「モンスター?モンスター何になるの?」
「モンスタースチューデントとか…モンスター妹とか、じゃないか」
しかし子供は皆、怪獣のようなものだ、と母親が言っていたことを思い出すと、わざわざ「モンスター」などと呼ばなくてもいいのかもしれない。子供と言うだけで怪獣だとしたら、
「ねーえ、キョン君!サンダル!」
そうだった。サンダルだった。
「お母さんに言いなさい」
「言ったよー、そしたら、キョン君と一緒に買ってきなさいって!」
どうやらオフクロの中では既に決まっていた予定らしかった。
妹が腰にまとわりついてくるのを放置しつつ(でも歩きにくい)台所にいるオフクロに事の真相を確かめると、少しも悪びれた様子もなく明日にでも行ってこい、と言われ、五千円を渡された。
「明日、キョン君、明日行こ!」
「明日ぁ?」
俺は眠たい頭ながらもちゃんと覚えていた。明日は祖母の家に行くことになっている。荷物だってもう準備してあるし、当然妹も行くはずだ。妹の手を取って体を社交ダンスのようにくるくる回して正面に立たせると、これは宥めて諌められてしまうなと直感が訴えたらしい妹は、ぱっと手を離して、
「違うの、違うの!」
と叫んだ。
「何が」
「ちが、あのね、おばあちゃんちに行くから、サンダルいるの」
例えば、誰かと出かけるから、というのなら理解もできる。こいつだって思い返せば幼稚園の頃からどこそこに行くから赤いボンボンで結びたいとか、誰それと遊ぶから白い三段スカートがいい、とか言っていたからな。往々にして女子というものはそういうものらしい。
でも今回の行き先は祖母の家だし、同行者は家族だ。一体誰の目を気にするっていうんだ。
「何で。別にビーサンでいいだろ」
「だって…」
花火でもあったっけ、と思い出そうとしたが、花火といえば夜、早くても夕方なんだからそれこそビーサンでいい。というか浴衣着るなら草履か下駄か、ってところだろうしな。
珍しくもじもじしている妹にこれ以上追求するのも何だかかわいそうな気がして「じゃあ明日行くか。午前中にぱっと行ってぱっと帰るぞ」と言ってやると、さっきまで泣きそうな顔だったくせにうっかりすると頭上に虹でもかかるんじゃないかという勢いで笑った。
夏休みくらい早起きは勘弁して欲しいと思いつつも、ここまで全開の笑顔になられちゃ仕方ないだろ。妹バカなんじゃないぞ、人間性の問題だ。
「というわけで、明日の午前中は妹の買い物に付き合わされるわけだが」
「はあ、そうですか」
電話の向こう、古泉の声は非常にぼんやりしている。ハルヒ関係であたふたすることもなく寝ているところを俺がたたき起こしてしまったようだが、古泉に関しては忙しいところに電話しちまったよりはマシな気がするな。
「で、古泉、明日ヒマか?」
「は?僕ですか?」
「俺は誰と電話してんだ?」
「僕ですよね。すみません、妹さんと出掛けるというのにお供させていただけるとは思わず、驚いてしまいました」
「嫌味か」
「いえ、言葉どおりですよ」
がさ、と耳元で音がして(多分、古泉が息を含みすぎたせいで音が割れたんだろう)、俺は思わず携帯を耳から離した。
「近い」
傍に居ないのに近いとはどういうことだ。
「すみません」
「で、どうなんだ明日は」
「構いませんよ、ご一緒しましょう…時にあなた、デジカメはお持ちですか?」
唐突な話題転換に俺はついていけなかったが、いい加減眠くなってきていたので会話をこれ以上延ばすことはせず、素直に「ない」とだけ答えた。
翌日は快晴、午後八時の時点で二十七℃だというから俺は外に出たくない気持ちでいっぱいになっていたが、妹の方はせかせかと支度を始めていたので今更嫌も応もない。オフクロが行けばいいのに、という気持ちが無いでも無かったが、ようやく自分の荷物を準備している様子を見ると言うだけ我侭が過ぎるというものだ。そうだ、古泉も道連れにしてるんだから俺が行かないでどうする。古泉と妹とオフクロなんて組み合わせ、想像しただけでも…まあ、特に問題が起こりそうでもないけどな。
はしゃぐ妹をたしなめて玄関を出ると、古泉がもう待っていた。
「ストーカーかお前」
古泉はニコニコしてるだけで否定もしない。妹と声を揃えて「行ってきます」と言った後、ようやく、
「あの角を曲がったところに車を待たせてありますから、行きましょう」
と言った。
「車ぁ?」
「えー、古泉君、運転できるの?」
出来るわけないだろ。
「生憎、僕は助手席です。運転は僕の親戚のおじさんがしてくれるんですよ。偶然ですが都合があったので」
きっと親戚のおじさんは荒川さんなんだろう。俺に口裏を合わせよという指示の代わりにウィンクが飛んできた。ええい、気持ちの悪い。
妹は「わあい」と言いながら車にすっとんで行った。思ったとおりの黒塗りの車、目立つだろ、こんなところにあんな車で着たら。
「期待はしてませんでしたが、特に感謝の一言もないんですねえ」
「ねえよ。最初から電車で行くつもりだったし、待ち合わせは駅だったろうが。コンビニ寄り損ねた」
「ふふ、そうかな、と思って、寄っておいて正解でしたね。車の中に冷えたお茶とスポーツドリンクがありますので、どうぞ。それからデジカメもね」
エスコートでもしてる気分なのか、背後に腕を回されると気持ち悪くて叶わない。
「まあ、そうおっしゃらず。さ、乗ってください。昼過ぎには帰って来なければならないんでしょう?」
まあな。
デジカメがどうしたんだ、と訊くのも忘れて、俺は涼を求めて車に乗った。