たっだいま~
大阪から帰ってきたよー…ぐったり。三度の飯より喋るのが好き!な私ですが、大阪の親戚の間に放られるとあまり喋りません。会う頻度が低いからか何なのか、あんまり喋れないんだよね…祖父の7回忌と祖母の17回忌を一緒にまとめてやってきたにも関わらず、読経タイムは最短の30分。
前日お邪魔した絵茶では「銅鑼が鳴るからびびる」って言ってたのですが、思い出した、そうそう、うちはシンバルみたいなやつでした。金属が割れるみたいな鋭い音だからこええ!!!ばりーん!とがっしゃーん!の間の音です。こええ!!
従姉妹の結婚とか出産とか、赤様自慢話とか、おめでたい話もたくさん聞きました。
お経あげに来てくれた坊さんの話だと、故人は集まってくれたみんなのおめでたい話を聞きたいんだって。私も次回おめでたそうな話を持ち寄りたいものです。主に結婚の話を。とりあえず今は「女子と同居してる間はまず結婚なんて夢のまた夢である」という現状報告をしてきました。まるで同居のせいであるかのような言い草ですが、もちろん問題はそこではない。ぼかしてきたし、追求してこなかった優しい親戚一同。サンクス親戚。
あとは溜め込んでいた約70年間に渡る親戚のみんなの写真を肴に宴会でした。
分かっちゃいたけど、いよいよ確信したよ、私が可愛かったのは7歳までだね。7歳にして人生下り坂、もう水面下の域です。いやあ小さい頃の私は可愛かった。弟はもっと可愛かった。何あのオニギリ小僧。もっちゃもちゃだった。
それから、じいさんがバイクで事故って瀕死のときの入院時の写真まであった。おいおいそんなの撮ってたんかよ。当時2、3歳だった従姉妹がすげーアホ面(ピースサインのようなことをしながら、白目を剥いて、ベロを上に出している)(説明へたくそ)で写っていたのが衝撃だった。彼女は両親によって「カメラを向けられたらこのポーズをとる」ように教育されてたのである。そのアホ面の後ろで瀕死のおじいさん。酸素マスクみたいなのして、包帯ぐるぐるで顔色も悪いおじいさん。すっげーシュールだった。親戚一同の爆笑をさらった。あの写真、もらってくれば良かった。お守りになると思った。
あと、おばあちゃんがやってた食堂が取り壊されていて結構悲しかったです。
ずっと店を閉めてたのは知ってたけど、うーん。たくさん思い出があるから悲しいなあ。
母方の両親がやっていた万屋(祖父の名が「金助」というので「まるきん商店」という名だったが、母はそれが卑猥な言葉のようで恥ずかしかったらしい)は、まったく知らない人に買われてしまったが存在はするので妙な気分だが寂しくはなかったからなあ。
いっやーあ、ほんと、親戚に明るい話題を提供できない自分がダメすぎて、何だかなあ。
この場合、明るい話題というのは私個人の楽しかった話ではなく、ピンポイントに結婚、になるので、ほんと申し訳ないなあ。それだけは無理そうです!という按配。
自分が結婚したいかどうかじゃなくて、結婚を望まれているのに応えられない心苦しさよ。
私でさえこんなんなんだから、古キョンはもっと悲壮だろうなあ。
いや、古泉は後ろめたくないくらいに楽しんでいるのだろうか(それも酷い話だ)
無理くり古キョン話にもっていって今日は〆。
自分ち用の八橋、買いすぎた。だから半月後にも行くっつってんのに聞き分けない私の脳みそ。
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