嫌なタイミングだと思った。
冷え切った廊下を進んで突き当たりの階段を登る、こんなところに誰かが居るとは思わなかったから財前は小さな声で歌っていたのだ。曲は歌詞もあやふやなJ-POP、特別好きでも嫌いでもなく、昨日足を向けたコンビニの店内で掛かっていたものが一夜明けてもまだ頭にこびりついていただけの、ただそれだけの。
歌ったそばから音が凍って薄くぱりん、ぱりん、と割れていきそうなほど(しかしそれが財前に見えたわけではない、そこまでメルヘン思考ではない)、寒い日だった。学校の階段の幅が狭いなと感じるようになったのはいつだったろう。
ちょうど踊り場でサビに差し掛かって、そもそもそんな高音が財前に出るわけでもなく、だから1オクターブ落として歌詞を唇に乗せた、それを、笑われたのだ。手左手で手すりを掴んで、ぐるりと遠心力を使ってカーブを曲がったそこに、謙也がいた。
「……何すか」
「え?」
「俺が歌っとったら何やおかしいですか」
「え、あ、ちゃうわ、機嫌ええんかなって思っただけやって、気ぃ悪くせんといてや」
両手をぱたぱた動かして、また笑われる。歌っているところが気まずいわけでもないし、謙也に笑われたところで何があるわけでもない。腹を立てるようなことじゃないのに財前は眉間にきつく皺を寄せてしまっている自分をしっかり自覚している。
「もう、何やねん、ええやん別に、俺かてこんなやし」
言われて顔を上げる、そこでようやく自分が謙也と目を合わせないようにしていたのだと気付いた。彼にまったく非がないと頭で分かっているから、懐柔されるのが嫌で視線を合わせなかった、その姿を視界に入れないようにしていたのだ。
果たして、財前が見上げた先の謙也は素っ頓狂な格好をしていた。素っ頓狂、とまでいかずとも、それでも訳が分からない。
「……」
「ちょお、コメント!スルーせんといて!」
スルーしてもいいなら全力でそうしたい。謙也は白の短いスカートを履いていたのだ。向き出しの、筋肉ががっちりついた足が気持ち悪い。
「……似合うとります、ね」
もう面倒くさいからさっさと立ち去ろう。横をすり抜けて三年生の教室へ行くつもりだった財前は、あっさり踵を返した。
「ちょお、どこ行くねん!」
「はぁ、これから部活やし荷物取りに」
「いやいや、階段登るとこやったやん! 上に用があったんやろ」
「ありましたけど、たった今なくなりました」
腕を振り払おうとしたのに、それが叶わなくて苛立つ。あんまり大仰に拒否をしても変だから腕を掴まれたまま話を続ける格好になって、そうやって騒いでいれば三年生の教室のあるフロアからこの踊り場を見下ろす生徒まで出てきて、ああ鬱陶しい。
「なんで!」
「俺が用があった先輩は、どうやら男子テニス部やなくなったみたいなんで」
「はあ?」
「それ、女テニのやろ」
白のスカート。もとい、スコート。
指を差すこともせず、視線を向けることもしないままだが話は通じた。
「あ、俺か」
「別に部長でもええけど」
「何で、俺に用やったら俺でええやん」
超中途半端にここまでっ!