耳は無い、尻尾も無い。
高いところから身軽に下りるわけでもないし、狭い箱や袋に入りたがるわけでもない。
それっぽい条件はいくつも当てはまらないけど、これは確かに黒猫だ、と謙也は思った。撫でようと手を翳したら二、三歩引き、一歩踏み込めば五メートル遠ざかり、じっと謙也を見ている。
これは黒猫だ。
「用があんねやったら口で言うてください、きもいっすわ」
と黒猫は尻尾を立てながら鳴き、しかし辛うじて野良ではないらしく、飼い主に
「こーら、財前、言葉には気ぃ付けなさいて言うとるやろ」
と叱られていた。
黒猫の名前は財前光、黒猫の所属はテニス部、性別はオス。
「……ほんで、謙也は何で財前君追っかけ回したん」
白石に言われて初めて気付く、そういえばどうして追いかけたんだろう。確か、目があったから何か用があるのかと思って、遠くで声を張り上げるよりは近くに行って話を聞く方がいいかと思って、でも逃げられてしまったので追いかけた。
あれ、追いかける必要があったか?用があるなら、と猫は言った……ということは猫には謙也に用がなかったのか。
「うう~……分からん……」
「あ、そ」
それ以上の興味がないらしく、唸る謙也を放置して、白石は一年生を集めて基礎練習のレクチャーを始めた。勿論、謙也が追っかけ回してしまった猫もそこにいる。
副部長たる小石川は、顧問とグループ分けをしているし、それなら白石の補佐でもやるか、と白石の後ろに立つと、また猫と目が合う。睨まれているのでもない、ただこっちをじっと見ているだけの猫は、白石に呼ばれて立ち上がった。
「自分、ちゃんと話聞きなさい」
「すみません」
「財前君、経験者やったっけ」
「……いちおう」
「したら、説明終わったら謙也に相手してもらい」
「は、」
驚いた猫は返事も中途半端に、しきりに瞬きをしている。謙也だって驚いた。白石に「なあ」と話しかけるが、仕草で「後にしろ」と言われてしまい、大人しく黙る。
ええー、だって、あいつやろ。あいつ挨拶しても目ぇ合わせんで「うす」とか言いよんねんで、感じ悪いわ、ほんま。そん代わり、全然関係ないとこで目ぇ合うし。話聞いたろって思て寄ったら逃げるし。ほんま感じ悪いやっちゃ。
言いたい事を言わせてもらえない謙也は、口を開けて、また閉じて、ひたすらに「早よ説明終われ!」と念じていた。見ると、猫はじいっと白石の話を聞いている。まあ一年やしな。経験者で特別扱い言うてもな、先輩っちゅー存在が珍しいはずやしな。
ああ、でも、本当に猫みたい、猫みたいだ。
時折、太陽のまぶしさに目を眇めるところとか、ちょっとやる気がない様子とか、体育座りの丸まった背中とか。
謙也は自覚のないまま無遠慮に眺め、財前が少しだけ嫌そうな顔をしたのを見逃していた。
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経験者だから、と特別扱いする気はなかった。
本当だ、断じて嘘ではない。だけど、後ろに控えた謙也が、右へうろうろ左へうろうろするものだから、ちょっと邪魔だったのだ。謙也の好奇心を満たすために財前を使ったことになる。どちらも気付かないといいけれど。
声変わりをしていない子も半分、という雰囲気の号令に白石は薄く笑いながら、ヒヨコたちの基礎練習を見て回る。まだクセも付いてないフォームは白石が少し 手を貸すだけで正しい形を成した。気分がいいな、と白石は思う。下の面倒を見るのも悪くない。もしかして、顧問はこれを知っていて二年に上がったばかりの 白石を部長にしたのだろうか、と考えた。
顧問の姿を探そうと、ぐるりと見回すと、二年、三年はグループに分かれての練習に入っているのが見え た。謙也の相手はあの一年生、財前光。鳴り物入りで入部してきた割に自己主張が強すぎることもなく、溶け込みすぎてるせいで危うく見逃すところだった。謙 也が嗅ぎ付けてくれて良かった、あの目は白石には向かないだろうから。
猫は動くものを見てしまう。自分に優しい人を知っている。ただ構いすぎてはいけない、逃げてしまうから。
動いているのは犬だ。逃げれば追いかける、「待て」で移動を止めても尻尾は緩く揺らしたまま、側でスタンバイをする。追いかける準備、遊ぶ準備。
それから大勢のヒヨコ。今は白石の教えを忠実に守る、後ろについてくる。
動物ばっかやなウチは、と呆れるものの、我ながら中々良い喩えだと白石は満足した。
「白石ー」
グループ練習の合間に白石を呼びながらこちらに向かってくる小石川は、小さな声で「財前、入れてええんかったんか」と聞いてきた。
「ああ、あれなあ。謙也が面倒見るならええかなって」
「……俺は、贔屓は感心せん」
「っちゅーお前の態度があれば充分やろ。飴と鞭、な」
「自分が飴かい」
「交代してもええけど?」
に、と笑うと、小石川は諦めたように、
「お前が部長やなかったら、俺も副部長やなかったと思うのに、ほんまついてへんわ」
と零した。強くは出ない小石川に鞭役をやらせるのは少しにしよう、でないと飼育委員が減ってしまうかもしれない、と白石は思った。
離れたところで顧問の渡邊が声を張り上げている。
「おおーい小猿ども、今日は休憩後にプロテインをやろう!」
それを聞いて白石は、どうやら自分も飼育される側だと知ってしまった。