待ち遠しく思えば思うほど時が過ぎるのは遅く、その逆は驚くほど早い。わざわざ驚いて見せるほど馬鹿ではなかったが、僕は夜明けが来るのを洞穴の中で縮こまる動物のような気持ちで待っていた。
単純に、怖かった。
彼が目を開けて僕の顔を見て、どんな反応をするのだろうかと想像すると恐ろしかった。
嫌われること、疎ましがられること、気持ち悪いと眉を顰めて避けられること、全て覚悟の上だったはずなのに、こうして一夜でもと応えてもらえた後だと一秒でも先延ばしにしたくなる。
彼の顔が青褪めて見えるのは、何時間か前まで紅潮した頬を見ていたためそう見えるだけだろうか。それとも慣れないことを強いられて苦しんでいるためだろうか。
もうずっと彼を見ていて、彼に関することで知らないことなど何もないような気になっていたことだってある程だったのに。彼が僕の何を見て受け入れようと思ったのか、そんなことすら分からなくなっている。
目覚めて僕を見て欲しい。目覚めずにずっとここに居て欲しい。
彼に向かう気持ちはいつも真逆のものを有していて、しかもより具合の悪い方を選択しがちな僕がいる。黙って見続ければいいものを、こんな風に、上手な嘘も吐けずに抱いたりなんかして。
どんな風を装えば彼にとって一番抵抗が少なくこの部屋を出ていけるだろうかと考えた挙句に、起きてまず自分が視界に居ないことが一番だと気付けたのに、瞼を髪を頬を撫でる手を引き剥がすことも出来ない。
テレビを付けて、その音で起きれば自然な感じだろう。考えながらも図々しく彼の手を上掛けから引っ張り出して、唇を寄せた。この手が自分の背に回されたことも一生忘れられないに違いない。自分を押し戻し、突っぱねるだけだと思っていたのに、彼はそうしなかった。哀れだと思ったか、惨めだと思ったか、それとも僕が何をするか分からず恐れて言いなりになったのか。
理由なんて何でもいい、なんて、嘘だ。
清算も出来ない、諦めもつかない。
溜息を一つ零してベッドを降り、テレビを付けた。いくら「このままずっと」と願ったところで、カーテンから差し込む弱々しい朝の光を無視する事はできないのだ。耳障りでない程度にボリュームを絞ってから振り向いてみたが、起きた様子はなかった。
シャワーを浴びるのも勿体ないくらいだが、夜の匂いを纏わりつかせたままでは気持ちを切り替えられそうになかった。ベッドを離れるのもテレビを付けるのもシャワーを浴びるのも、全部仕方なく、だ。今、地球上で一番未練がましく女々しい男は自分だろうな、と自嘲が漏れてしまっても仕方のない事だった。
シャワーのコックを捻ったときにようやく、彼にもシャワーを勧めた方がいいのか、という問題に気付いた。彼の方から申し出があれば頷くだけで済むが、自分から言い出せば居た堪れなくなって歪む顔を見る破目になりそうだ。
物事を計画的に進めるのは「古泉一樹」の得意とするところだろうに、法則破りの現状では何一つ実践できず、結局、ろくに髪も拭かずに部屋へ戻ってちょうど彼が目を覚ますところに立ち会ってしまった。
音を立てないようにドアを開けると、ベッドの上に横たわる体が身じろぐ様が見えた。心臓を鷲掴みにされた気分になってそれ以上歩を進められずに立ち尽くす。
彼はすぐには起き上がらず、何かを探すように掌をシーツに滑らせていた。あれが自分を探す手だったとしたら、直後に殴られようと蹴られようと今すぐ飛んで行くのに。きっと違うのだろう、期待をするだけ馬鹿を見るんだろう。
それから体の具合を確かめるようにして身を起こし始めた。始めた、というのは、すぐには起き上がれなかったからだ。思いもよらぬ箇所が痛むのだろう、喉から呻き声とも取れる息を漏らし、それを堪えるように唇を食い締めているようだった。
痛ましい。
そんなに無理をしなくても、そう、これ以上あなたに無理を強いる存在はありません、と、そう教えてあげたかった。一番無理をさせたのは他でもない自分自身だというのに、勝手なことだ。
随分と時間をかけて起き上がった彼は、次に喉に手をやり、小さな声で「あーあー」と言い出した。喉の調子をみているのだろう。何て可愛いんだろう、と感動しかけたところへ、冷たいものが落ちる。口元を引き結ぶことも出来ないほどに滅茶苦茶に蹂躙したのは誰だ、嫌だと言った彼に聞く耳を持たなかったのは誰だ、遊びだと言ったくせにそんな余裕も持てずに好きなようにしてしまったのは、誰だ。
だって欲しかった。同情でも気まぐれでも恐怖でも、彼がいいと言ってくれたなら今更手を引っ込めることは出来なかった。
肉付きの薄い肩に腕に、自分が付けてしまった痣が見えた。相手が女性でなかったにしろ、男からこんな目に遭わされるなんて思ってもみなかっただろうから、あの痣を見たら彼は怯えるに決まっている。もっと大事に、丁寧に触れられたら良かったのに。
次は、ない。
過ぎた夜を思えば思うほど泣きたくなった。泣いてはいけないと分かっていても込み上げるものを飲み込むので精一杯だった。
泣くな。目を離すな。音を立てるな。これが彼と過ごす夜の終わりなんだから、全てを映して焼き付けろ。
噴出しそうな感情を堪える為に口元を抑えた瞬間、彼も全く同じように自分の手を口にやっていた。ただし、苦しそうではなく、笑っているようだった。何を思い出しているんだろう、少しでも、彼にとって「遊んだ」と思えるような出来事があっただろうか。あったとして、それは何だったんだろう。
ふ、と声が漏れてしまった。彼の笑った雰囲気に、どうしようもなく嬉しくなって同じくらい悲しくなって、声が出てしまった。
「お前」
ああ、僕は何て馬鹿なんだ。振り向いた彼の表情はどうだ、ものの見事に硬くなっているじゃないか。
「見てんなよ、趣味悪い」
吐き捨てた言葉は先程の発声練習のお陰かぶれても掠れてもいなかった。心臓に突き刺さるには充分な硬度だ。
だけど泣いてはいられない。朝日は昇った、彼は目覚めた、いくら自分の踏ん切りが付かずとも、タイムリミットだ。
「おはようございます。…今日のご予定が無いようでしたら、どうぞ、休んでいって下さい。入りそうでしたら何か作りますが」
言って、ミネラルウォーターのペットボトルを手渡そうと一歩近づくと、彼はわざとじゃないのかと疑ってしまうほどに体を大きく震わせた。
「ちょ、待て」
「どこか痛みますか」
「いいから、寄るな」
「何故」
撥ね付けられるだろうと予測していたにも関わらず、実際に拒絶されると応えるものだと知った。食い下がる自分はどこまでも選択を誤っているのに、軌道修正は出来ない。 愚かで、醜い。
「この距離は以前と同じです。警戒しないで下さい」
「警戒なんか…」
まだ体は急な動きについていかれないのだろう、僕がベッドへ乗り上げても少し仰け反るだけで、それ以上は離れてはいかなかった。こんな追い詰めるような真似は、彼の中での評価を下げるだけだろうに。
「でもあなたは逃げたいのでしょう?」
「それは、」
身を乗り出して、ああ、いけなかった、こんなに近づいてしまったら触らずにはいられない。
顔が近い、と普段から怒られていたのが心の底に残っていたのか指を伸ばして額に触れた。熱を測る振りなんかして、今更ポイント稼ぎにもならないだろうに。
「触るな」
「…熱はないようですね」
「ほんと、頼むから、構うな…動けるようになったら勝手に帰るから」
低く唸るように絞り出された声が痛ましい。そうですか、とあっさり手を引かなくてはいけないと分かっていても幾らもない触れている面積から伝わる熱が愛おしい。動けない相手に迫るのは卑怯なのに、続く言葉も見つからないまま手のひらを滑らせて頬を包んだ。眉を顰める彼の顔も気にしていない風を装って。
「…古泉」
「はい」
「俺に、触るな」
「何故、と訊いてもいいですか」
途端に彼は口を引き結んで俯いた。強い視線が外されたのを良い事に僕はついには両の手で彼を抱き寄せる。呼気がシャツを通して伝わって、彼が生きてここに居る実感が沁みた。彼がどんなに真剣に僕を遠ざけようとしていても、それが僕に伝わっていても、僕はそれとは全く関係がないような顔をして好きなことをしてしまう。彼を無視してまで手に入れたい彼、というのは全くの矛盾だと気付いていながら、だ。
「僕はあなたに触れたい」
「俺は嫌だ」
「…何故」
抵抗は無かった。汗で湿った髪に手を差し込んで、首の裏から背の真ん中に浮き出た骨を辿った。全部、昨日の夜に指が覚えている通りだ。嫌だと言われても物理的に引き剥がされない限り僕は。
「お前が言ったんだ」
「…」
「遊びだって、お前が…だから、もう、触るな。もう絶対、俺はこんなこと、しない」
皮膚の上を硬い空気が覆っているのを感じた。ゆっくり触っていた手のひらを止めて顔を覗き込もうとすると逆に視界を彼の手で遮られた。
「見るな。俺に触るな。俺はもう二度と、お前と、こんなことで遊んだりしない」
彼の低い癖のある声は、どんどん低く低くなっていって、終いには聞こえないほどだった。ただ、彼に通じるものは全て閉ざされたんだということは分かった。