「ま、そんな日もあるわよ」
珍しくハルヒは首を突っ込むこともなく、きっぱりはっきり切り離した。五月も半ば、空はこんなに青いのに風はこんなに温かいのに太陽はとっても眩しいのに、古泉は
「気分が優れず皆さんにご迷惑をお掛けするのも本意ではないので、今日は早退させていただきます」
と、たった一回の質疑応答も設けずに部室のドアを開けて言い放ち、帰って行った。
だからハルヒの言葉も聞いていないくらいなのである。
珍しい、こりゃ雨でも降るかな、と窓に視線をやると、読書中の長門は本から目を逸らすことなく
「降水確率はゼロパーセント」
と教えてくれた。ありがとよ、でも俺もそう思ってたぜ、雲の一つもないからな。
話を戻そう。
我らがSOS団、不動の副団長、古泉一樹の話だ。(副団長というポストが不動なのは単純に構成員不足の面もあるが、俺はきっと生涯を通じて雑用ポストだろうから、古泉の実力もあっての地位だ)
古泉の気分が優れているのかいないのか、これを古泉の表情から判断するのはちょっとばかし難しい。おそらく、クラスメイトレベルじゃ、そんなことは判断つかないだろう。
俺?俺か、俺は分かる。止むを得ん、分からないでは雑用も勤まらないのだ。致し方ない。
その万年雑用確定の俺が見たところ、気分が優れない、というのは本音のようだ。「気分が悪い」と言い切るほどでもなく、「良い」とは到底いえない、「優れ ない」というレベルのもの。普段からまどろっこしい表現に命を懸けているかと疑わせるような古泉の、割にストレートな物言いだったのではないだろうか。
「いいのか、憂さ晴らしの計画とかしてやんなくて」
そういうわけで、古泉が嘘を吐いているんじゃなければハルヒが動くのも友人の範囲で許可できる、と思ったというのにハルヒは動かない。こんなお節介を言ってしまうのもそのせいだ。
「憂さ晴らしってアンタねえ。もしかしたら体調不良かもしれないし、そしたらそっとしてあげるのが優しさってもんでしょ。キョンと違って古泉君は必要なときに必要な処理ができるわよ」
信頼剛速球、とでも表現したらいいのだろうか。ハルヒの自信満々、満ち溢れた自信を量り売りでも出来そうな雰囲気に、俺は「そうか」と返事をする以外どうしようもなかった。
これでハルヒからの後方支援……いや、ハルヒが後方ってことはないな、俺がハルヒの後方支援に回る、という道が絶たれたわけだ。
窓を背にして座すハルヒを諦め、俺の向かいにおわします「優しい可愛い」を可視レベルに加工したらこんなだろう、と思わせる上級生・朝比奈さんを見ると、彼女は「うーん…」と小さな声でそれはもう可愛らしく唸り、窓際の長門を見やる。
長門は視線に気付いたのか、本をぱたんと閉じて
「古泉一樹はいわゆる五月病」
と、身も蓋もない回答を下した。
「五月病ねえ。ふうん、古泉君も人の子ね、じゃあ明日は古泉君転入一周年記念パーティーをしましょ。各自、スピーチを考えてくること!今日はもう解散!あたしたちは転校生じゃないんだから、パーティーはできないのよ、勝手に五月病なんてならないでね」
むちゃくちゃな提案ならびに説教ではあったが、まだ動き様のある話だ。俺は唱える異議もなくハルヒに「了解」と返事をした。ハルヒが瞬きをしてから「なあに、その返事!」と笑ったので、俺も少々おかしくなってるのかもしれない。
今更相棒が居ないくらいで揺らぐ立ち位置でもないが、バランスを取りづらくはなっているのかもしれん。これは早々に復帰してもらわねば。
「それであなた、何て答えたんですか」
「あ?それで全部だ」
頭からタオルケットをかぶって玄関のドアを開けた古泉だったが、俺が特に何をしに来たでもないと知ると「涼宮さんは、何て」と切り出してきた。そんなに気になるなら返事を聞いてから飛び出してくりゃ良かったのにな。
「肩を竦めて?」
「竦めたかどうかまで覚えてないが、そういう流れだったかもな」
「そう、ですか……」
ハルヒが特に怒ったりいぶかしんだりしてなかった旨を一通り聞くと、壁を背にしてベッドに座っていた古泉はずるずると沈んでいった。随分とくだけた様子 だ、俺だってこんなの初めて見たぜ。ああ、注釈が必要ならば申し上げておくが、見たから嬉しいとか、見たから悔しいとか、そういった付随する感情は皆無 だ。どっちだって構わない、それは笑ってようが笑ってまいが、こいつの本質が変えられようもないもんだと知ってるのと同じことだ。
「で、これだが」
「え?」
「うちの妹から、病気の古泉君へ、だそうだ」
コンビニの袋に入ったものを、袋ごと差し出すと、古泉はずるずるとベッドから這って下りてきた。ちょっとした妖怪のようだ。
「シャボン玉……あなた、妹さんに僕のことを何て説明したんですか」
「かんしゃく起こしてる、って言った」
「ああ……」
肩をがっくり落とす様子は可哀相だと思わないでもない。が、そのフォローに回ってやってるんだから、釣りが来たって良さそうなもんだろう。
「あいつな、やり場の無い怒りを抱えたときに、泣きじゃくりながらシャボン玉吹くんだよ」
「それは……器用ですね」
さっそく蓋を開けようとする古泉に「ベランダでやれ、ベランダで」と教えてやって、俺も一緒にベランダに出る。靴下……ああいいか、少しくらい汚れちまっても。
「あなたが勧めたんですか、シャボン玉」
「さあ。俺か母親か、まあどっちかだろ」
怒って泣いても、力任せに吹いたらシャボン玉が出来ない。吸ってもダメ。短気な妹を落ち着かせるには絶好のアイテムで、妹も古泉がやるせない気持ちになってるなら、と差し出したんだろう。
「あ、これもしかして、妹さんと間接キスでしょうか」
透明の球を五月の空に飛ばしながら、古泉はのほほんとした声を出した。
「さっき包装開けただろ、新品だ」
「そうでした」
気持ちの悪い発言の割には爽やかで、元の出来が違うとは恐ろしいハンデだ、と俺は思った。そもそも五月病と言われて誰も古泉を残念に思っていないあたり、もうスタートラインが違う。
「……ハルヒが」
「はい」
「そんな日もあるわよ、って言ってたぞ」
「あはは、それ、涼宮さんの物まねですか」
話の軸をまるっと逸らされたということは、古泉はもう治っちまったんだろう。珍しいものを見るのも今日限りで、きっと明日からは元気いっぱいに笑顔の仮面をつけるんだと思うと、今こうして古泉がだらしない顔でシャボン玉を吹くのを見ておくのも悪くはない。