べたつく手の平を眺めて、財前は慎重に溜息を吐いた。溜息を吐くのにわざわざ気をつけなければならない のは、急に動くと体が震える気がしたからだ。自分しかいない部屋で誰に気を遣っているのか分からないが、とにかく、自分自身にも「俺は動じてなんてない」 と見せたかったのかもしれない。
何の処理もせずベッドに横たわったまま、心臓が落ち着くのを待った。エアコンの音と、隣家が窓を開けているせい で聞こえてくるテレビの音声、それから「ふー、ふー」という動物みたいな自分の呼気。早く落ち着きたいと願うのに、今しがたの快感に脳が痺れる感覚と、体 が落ちていくような錯覚がまだ残っている。
手を伸ばせばティッシュボックス、取り敢えずの始末をしなければいけないのに動けない。気だるさが眠気を連れてきて、ああだめだ、瞼が重い。
そのとき、携帯がびりびりと震えて着信を知らせた。
左手は電話を触るに相応しくない粘液でべたべただったので、財前は右手を頭の上に伸ばし、ベッドヘッドにおいてある携帯を探った。ストラップをつまんで、器用に口で折りたたみを解く。
「うわー……」
発信は謙也からだった。何もこんなタイミングで、と財前は眉をしかめたが、ここで取らないのも勿体無い。謙也は日付が変わる頃には寝てしまうから、電話で話せる時間も限られているから。
「……はい」
「お、起きとった」
「……ん」
電話口で笑った空気が伝わる。よく知っている、息だけ吐くようにして少しだけ笑う、あの感じ。息の音だけでちゃんと脳内で組み立てられるのに、現物が側に ないのを理不尽にも「何でだろう」と感じる。そうだ、射精の直後から頭が冷えるまではいつも、意味の無いことや理不尽なことを考えているな、と思った。
「眠いん?」
「んー、いや、眠かないです、けど」
答えながら、電話を肩口に挟んで、乾いてきてしまった残滓をティッシュを引き抜いて拭う。喋りながらすることでもないが、これ以上放置しておくわけにもいかない。
「そうかぁ?……ほんなら、ちょっとだけええかな」
「はあ、また弟と喧嘩でもしましたか」
「またも何もそんなんで電話したことないやろ!」
全くその通り。財前は自分の感覚が平常に戻っていくのを感じながら、
「捻りないツッコミ……」
と零してみた。案の定、電話口でぎゃんぎゃん騒いでいるようだが、ベッドから少し離れたところにあるゴミ箱にティッシュを捨てるために一瞬電話をベッドに寝かせてしまったので聞き取れない。
「おえ、聞けや!」
「あ、すんません、今携帯おいてた」
「うおおい」
「謙也くん、あんまし騒いどると怒られるで」
「誰のせいや、誰の!」
一通りの流れがあって、少しだけ黙る。きっと謙也は、きゅ、と眉を寄せて言いたい事の順番を考えているのだろう。
「……なあ、財前、電話口で黙らんといて」
謙也にしては珍しい、弱った声。
「そら自分やろ」
「うん、せやな、せやけど、……ちょお今、家出られんし、俺」
要領を得ない言葉の繋ぎ方に、財前は思わず声を低くしてしまった。何か真剣な話なら、茶化している場合ではない。
「何の話……」
「……あー、アカンな、変なこと言うてまいそやから切るわ。すまん」
「え、待って、何?」
結局電話は切れてしまって、何て一方的な奴なんだと腹を立てるよりも、意味の分からなさと唐突さにぽかんとしてしまう。
取り残された感にぼんやりしていると、すぐにまた携帯が震えた。短く四回、メールの受信だった。
『声聞きたかっただけ 何してんのかなって思って』
キスもさわりっこ(これは謙也がよく使う言葉だ、もし財前が自分から誘うならもっと別の言葉を吟味したい)も済んでいて、もちろん気持ちの確認も済んでいる間柄なんだから、声を聞きたいというのだって立派な用件になるだろうに、何をもじもじしているんだろう。
『普通にきいたらええのに』
返事も簡潔に送る、電話なら一秒もかからないだろうに、と思うのは切られてしまって残念に思う気持ちに通じている。
『あと、ちょっとよこしまなかんじ』
早く送信することを優先させたらしい平仮名のみの返事は、内容を正しく財前に伝えているか分からない。ボタンを押す何回か分の作業を省かない方が、財前からの返事も早いだろうに。
ヨコシマな感じ。
何だろう、声を聞きたい裏の意図。謙也が一つの事柄にいくつも意味を持たせるなんて。
『よこしま、って何?電話エッチでも期待しましたか』
電話エッチ、と打ってから、テレフォンセックス、と打ち直して、また元に戻す。他に、他に言い様が……と、悩んで悩んで、悩んでいる間に送信相手がそわそわしているだろうことを思い出す。
もしかして謙也も、こうやって何て言い出そうかと迷って迷って迷った挙句に「さわりっこ」なんて言ったのだろうか。それなら自分も迷った挙句の言葉をそのまま出してしまってもいいな、なんて。
考えても仕方ない、とそのまま送信し、深呼吸を二回した。一度は落ち着いた心臓がどくどく音を立てているのは、緊張と期待からだ。
返事が来る前に部屋の換気をしてしまおう、と立ち上がると、引き止めるように携帯が振動した。青緑のランプに切れないバイブレーション、電話の着信。
心臓はいっそ苦しいくらいに早く鳴り始めて、ああ、目の奥も熱い。自分の体が一気に興奮状態へ加速していくのを感じながら、財前は電話の向こうの謙也に何を言ってやろうか考えた。
取り合えず、「自分ですんのは物足りん」とでも言ってやるか、それとも「俺でイって」とでも。
考えるだけならいくらでも思いつくけれど、興奮に支配された体で何をどれだけ言えるのやら、と諦めた心地も若干は、ある。