「明けない夜はない」の続き
平日休日問わず目覚ましになる妹が来ない。携帯が鳴った訳でもない。要するに、完全なる自力で起きたのは久しぶりの事で、変な話だが慣れない感覚に俺は少し戸惑っていた。
本当に誰も居ないのか、もしかしたら起こしにきた妹なりシャミセンなりが布団に一緒に入っちまって寝てるなんて事はあるまいな、と―この往生際の悪さは偏に「まだ寝ていたい」という気持ちを表しているだけだが―布団の余分なスペースを叩いて小さな熱の塊を探した。
しかし手のひらは子供も猫も発見出来ず、その代わり自分のベッドにしては弾みすぎるという点を発見した。
ああ、そうだ、ここは俺の部屋じゃない。
さっきまでの往生際の悪さは忘れてくれ、あれは自室だと思っていたからこその甘えであり、ここが自室じゃなく古泉の部屋だったと思い出した今、呑気に寝てる場合なんかじゃない。目を開けても古泉の姿は視界に入らず、情けない話だがそんな事で俺は安心して起き上がった。
こんな所も筋肉痛になるんだな、と妙に冷静な感想が出てくるのは仕方が無い、ちょっとした現実逃避だ。唇を強く噛んで情けない悲鳴を殺している現状とか、気を抜くとぐしゃりと崩れそうな下半身だとか。そんなものと平常心で向き合えるほど達観してないぜ、俺だって。
何でこんな事になっちまったかなんて、本当は考えたくない。だからと言って避けて通れるかと言ったら、それは無理だろう。まず、俺が今素っ裸な時点で無理。古泉が気を利かせてここに服を置いていてくれたらまだ可能性もあったものの、いやいや無いな、シャツはソファに居る時点で引っぺがされたのを覚えている。普通に破れる音とかしてたから、もしかしなくてももう着られない気がする。そうなるとシャツは古泉の予備を寄越してもらわなきゃならなくて、これも自己申告しなきゃいけないのか?
古泉の誘いに自分で乗った以上、後始末は俺だって同等にやらなきゃいけないだろう。と思ったものの、体は言う事を聞いちゃくれないし、喉だって痛い。
「あー、あー」
マイクテストよろしく小さく声を出してみたが微妙だな。寝起きはいつもこんな声だった気もする。くそ、痛みさえなきゃ気のせいか、って無視も出来るのに。
後始末は平等に、なんて俺が律儀に考えているのに、受けるダメージは俺の方が多そうなのが気に入らない。古泉にも平等にそれなりのダメージがあって然るべきじゃないのか。
古泉はどこ行ったんだろう、とベッドに手を付くと、その手首が赤くなっているのに気付いた。何だこれ、と手首を視線の高さに持ち上げて、「あ」と声が出そうになったのをその手で塞ぐ。
もしかして、あれか。古泉か。どんだけ力自慢してんだアイツ。
途切れ途切れの断片しかない記憶を手繰り寄せてみても、思い出せる古泉のツラは苦しそうなやつだけだった。後悔してるみたいな、そんな顔だ。
馬鹿だな、そんな辛いなら止めときゃ良かったのに。やっぱり遊べません、って言ってくれたら俺だって、まあ、火が付いちまっていたのは認めるけども、後戻りくらいは出来た気がする。
体調不良なんて本当はどうだっていいさ。俺か古泉か、どっちかでも満足して終わったなら、少なくとも得るものがあったって事だろう。この場合は古泉が誘ってきたんだから、少なくとも古泉だけでも楽しかったと思えなけりゃ、無意味で無駄で、…違う、もっとマイナスだ。だって俺は、もう。
二度とこんな遊びするものか、と決心した瞬間に、息を吸う音がした。振り向くと泣き出しそうな顔をした古泉がいた。ずっとそこに居たのだろうか、髪から落ちた滴がシャツの肩口を濡らしている。ああ、だからどうしてお前は顔に似合わずズボラなんだ。風呂から上がったらすぐ拭けって俺が何回言ったと…と呆れる一方で俺の声帯は自分でも驚くほど冷たい声を出す。
「見てんなよ、趣味悪い」
古泉はそれに反応せず、淡々と今日のスケジュールを吐き出し始めた。予定も飯も、どうでもいいから服を持ってきて欲しい。この際、例え袖が片方千切れていても構わないから。…自分から言うか、いや古泉が気付くのだって時間の問題だ。
しかし古泉はソファまで戻らず、こっちに歩いてきた。
「ちょ、待て」
「どこか痛みますか」
「いいから、寄るな」
「何故」
そりゃお前は風呂に入ってスッキリ爽やかな状態だろうが、俺はあっちこっちベタベタな上に素っ裸なんだ、まだいつもの状態までリセットしきれてないんだ。
言ってやろうかどうしようかと迷っているうちに古泉は警戒するなと言い出し、余計な事を言われたせいでまた頭の中がごちゃごちゃしてくる。そんな、お前が切羽詰るような話をしたいんじゃないのに。
混乱を鎮めたい、しかし古泉が距離を詰めてくるから出来ない。いいからほっといてくれ、触るな構うな、とにかく服を着て普通の状態に戻りたいんだ、俺は。
一夜限りとか言われて俺は多分、焦ったんだ。それでも、応える事で何か生まれるなら、朝になったら手放さなきゃならないものでも、欲しいと思った。キスをする時は口を開けなきゃいけないのと同じように、セックスをする時は本音だろうと嘘だろうと好きですとか愛してますとか、言うんじゃないかと。
そんな言葉を聞きたいだけで話に乗ったと知ったら、さすがの古泉も引くだろう。俺だって若干引き気味だ。自分の事だから完全には引けないだけで。
もう夜は明けたんだろう。だったら俺ももう、くだらない妄想に縋り付いたりしないで、きっぱり無かった事にするべきだろう。
だから、触るなって言ってるんだ。お前に触られると思い出すから、そうしたら俺はいつもの俺に戻れないから。むしろお前のために言ってやってるっていうのに、どうして言う事聞かないんだ、こいつは。
ベッドに乗り上げてきた古泉は、俺が動けないというのに全くフェアじゃないと憤慨するに値するほど好き勝手を始めた。今、このタイミングで抱きしめるとかありえないだろう。
古泉は何度も「何故」と訊ねてきやがった。
極めつけには「触れたい」とも。
訊いておいて答えは要らないのか、また勝手に触り始める。さらさらの手のひらが俺のべたついた体を触るのが嫌だった。俺ばっかり、ずっと夜を引き摺っていて、それを暗に示唆されているようだった。
「お前が言ったんだ」
だから「何故」の答えをやろうと思った。本当はこんなこと、言いたくないのに。
「遊びだって、お前が…だから、もう、触るな。もう絶対、俺はこんなこと、しない」
するはずない。だって聞きたい言葉も聞けず、後に残るのはお前のしかめっ面と死にたくなるほどの体調不良だぞ、百害あって一利なしだ。加えて、もしかすると俺はこの先、一人でする時か誰かと一緒かは分からんが、自慰でもセックスでもお前の事を思い出す可能性だってあるんだ。古泉が聞いたらまた嫌な顔をするかもしれない。でも仕方ないだろ、俺はあんな風に触られた事がないんだから。俺は常識人だから、いちいちそんな事を口にはしないけども。
古泉は何を思ったか、俺の顔を覗き込もうとした。俺が何を考えているかなんて顔色を見て分かられてたまるかと思う一方で、もしかしたら見通されるかもしれないと恐ろしくなった。
咄嗟に奴の目を隠す。こんな子供染みた真似で自分がいくらかほっとするのが情けない。
「見るな」
もう一度、二度としないと宣言したものの、俺の声はどんどん覇気が無くなっていって、だからもしかしたら古泉には聞こえなかったかもしれない。
程なくして体を巻き込んでいた手が離れていった。俺もつられて手を離す。俺の寝汗やら緊張やらで湿った手の下から現れた目は真剣そのもので、少しだけ身構えた。そにしたって、どうして服も着ないままで対峙せにゃならんのか、とツッコミを入れたいところだが、どうにも古泉が真顔だから俺も黙っておく。俺が裸だろうと着込んでいようと、関係ないような話が始まるんだろう、多分。
おかしい、俺と古泉の距離感はこんなんじゃなかったはずなのに。古泉がいくら真剣に喋ろうと、俺は聞きたくなきゃ聞かないし、聞いて相槌を打ったり勝手にまとめに入る事もあったし、要するに古泉のツラに左右されるような関係じゃなかったはずだ。例えそれが俺達に関係しようとしてまいと。
「また、してもいいとは、思えませんでしたか」
冗談で言っている顔じゃなかった。古泉の笑顔は絶えなく振りまかれるものだと思っていた日が遠くあるようだった。
「思えない、っていうか、最初からそういう話だったんだろ」
「僕がそう言ってあなたを誘ったから…」
「他に何があるんだ」
「では…一夜限りと言ったのを取り消したいと言ったら?」
あれだけ触るなと言ったというのにもう忘れてしまったのか、古泉の長くて細くて嫌になるくらい整った指が、例の痣が付いた俺の手首を取る。痛みは無いが、古泉に見られる、と思って俺は咄嗟に振り払った。古泉に付けられた痣なんだから、古泉は知っているだろうにな。咄嗟の判断ほどどうにもならないものもない。
古泉は殊更に眉を顰めて、
「僕が乱暴したから、もう、嫌になりましたか。…手首でも、もう触られたくないと?それなら次はちゃんと、」
「言いたかないが、こんな格好でこんな状況で、どんなまともな判断が出来ると思ってんだ」
「僕の誘いに乗った時点では、あなたはネクタイまできっちり着用されていました。ああ、きっちり、というのは状態を表すのでなくて段階を表すものとして、です」
生後三ヶ月で片言を操り一歳になる頃には新聞を読んでいたと言い出してもおかしくない程に弁の立つ古泉は、しかし裏腹に硬い表情をしていた。
「…お前がそんな顔するのに、どうして俺が二度目だとか言えると思うんだよ、バカ」
体目当てと思えるほど、お互いに気持ちがいいだけじゃ済まなかっただろ。少なくとも俺は日常のお前を失った気になったぜ、代わりに得るものもないのに。
そうだ、俺は失ったんだ。キスをされて、よりによって男になんか掘られちまってようやく気付いたものがあったのに、同時にそれを失ったんだ。
気持ちが伴うならまだ良かった、体の痛みくらい我慢できた。
そうでないなら、気持ちなんかなければ良かった。
ようやく辿り着いた答えはあまりにも滑稽で、残酷で、俺を打ちのめした。そりゃ涙も出るって話だ。
前触れもなく目からぼろぼろ落ちる涙に気付いた古泉は一瞬ぎょっとした顔を作って、それからまた自嘲を浮かべた。ああ、そんな顔ばっか作ってたら、そっちが地になるぞ。
「泣くほど、嫌になってしまうなら、最初から蹴散らして下されば良かったのに」
こんな結果が分かってりゃ俺だって断ったさ。いくら煮えた頭でも、そのくらいの判断は出来たはずなんだ。
今、口を開いても言葉が出てくるとは思えなかった。俺は黙って涙も流れるがままにしていた。拭う動作も億劫なんだ、別に古泉に見せ付けてるわけでも何でもない。俺に含むところがなくても古泉に思うところはあったらしく、痒くなり始めた跡を拭われた。
「すみません、もう触りません。…あなたにとって辛く苦しいことばかりをさせてしまいました。申し訳ないです」
「いや…」
「もっと、気持ちがいいだけだったら、良かったですね」
全くだ。よっぽど言ってやりたかったが、それも飲み込んだ。今日はよくよく言葉を飲み込む日だな。
離れていく古泉の指を見ていた。次に古泉はベッドからするりと降りて、もう少し寝ていて下さい、お疲れのようですから、と言って部屋から出ていった。
俺は本格的に泣いてしまった。みっともないことこの上ないが、まあ誰も見てないから許せ。一度涙が零れたのが引き金になっていたと思う。でも「泣いてしまいたい」と思って泣くのは全然別だ。古泉も「気持ちいいだけ」ではなかったんだと知ってしまって、それがもう堪らなく悲しかった。
やっぱり止めれば良かったんだ。最中でも、いってなくても、無理矢理にでも引き返せば良かった。
「…ふっ、うっ、…」
殺しきれない嗚咽がまたみっともなさの上塗りだ。高校生にもなってこんな無様な格好で無様な泣き方も他にないだろうって位の。
本当に往生際が悪い俺を、誰より俺が嫌いだ。
少し先にある分かりやすい未来を想像出来ても、もしかして言ってくれるんじゃないかなんて万が一に賭けてしまう自分。とっとと部屋から出ればいいのに、それも出来ずに泣き出す自分。
朝になったら、全部忘れるんじゃなかったのかよ。