財前光は心底うんざりしていた。あまりの絶望感に、うっかり
「もお、死にたい……」
と呟いてしまって、隣で機嫌よくガットに指を這わせて鼻歌を歌っていた後輩に
「あかん!光、死んだらあかんで!!」
と叫ばれた。その声量に、余計にうんざりさせられる。声量に押されるように少し体が傾いてしまって、体力ゲージが削られていくのを実感する。
後輩にはポケットに入れていたカントリーマァムを渡して機嫌を直してもらい、自分は部室を出た。
ダメだ、部室も安らげない。
仕方が無いので木陰、木陰に行こうと部室から一歩踏み出すと、ぎゅう、と何かを踏んづけた。
「ぎゃああ」
「……ほーお、今時の死体って悲鳴も上げるんか……」
「うっさいわ!足、退かせや!」
悲鳴の持ち主が謙だと分かった財前は、一度も視線を下に向けることなく通り過ぎようとした。これ以上構いたくないし、構われたくない。何といっても腹が痛いのだ。
「ちょお待ちや、自分、詫びの一言もナシかい!」
「やーさんやないんですから、その言い草はないでしょ」
「うっさいわ、自分こそひき逃げも同然やろ!」
ひき逃げ。確かにな、と財前は二回ほど頷いて、「これで先輩の気は済んだだろう」とばかりに再度通り過ぎようとする。何せ腹が痛い、こんな煩い人に付き合いたくはない。また頭がぐらりと揺れて、体の中身が重力に負けて落ちていく錯覚が、少し。
「財前!」
耳を自分の手のひらで覆って、すたすた歩く。いや、実際にはよろよろ、だったかもしれない。
「財前、待ちや、具合悪いんやろ、もうそこに座っとき。白石呼んでくるし」
半ば強引に掴まれた腕に眉を顰めたが、出てきた名前に財前は大人しく頷いた。謙は「よっしゃ」とやる気満々で走って行った。炎天下に放り出され、ずるずると壁に背を沿わせて座り込むと、今度は地面が溜め込んだ熱が下から登ってきて、ジャージの中が蒸し上がる、と思わされる。
どこか、静かで涼しいところで眠りたい。
そう思いながら財前は意識を手放した。大丈夫、ここで気絶しても先輩が来てくれる、蒸し焼きになった死体にはならないだろう。
「そろそろ起こしといて、先生呼んでくるわ」
白石の柔らかい声がして、かたん、と引き戸が閉まる音が続く。冷房の稼動音と、窓を隔てて蝉の声。
「光はん」
白石のそれよりワントーン低い声で呼ばれて、財前はようやく目を開けた。白いカーテン、保健室か。
「……具合、どうや」
「普通です」
「嘘」
「普通に、お腹痛いっすわ」
「せやろな」
嘘を見抜かれた恥ずかしさと、見抜いてもらえた安心感で、財前は隣の銀を見上げた。さらりと揺れる黒く長い髪を後ろに払い、銀は
「痛いていつでも言うてええのに、我慢して偉いんか偉ないのか、分からんね」
と笑った。
白石が保険の先生を呼びに行ったから、もう少し待てと言われ、財前は掛け布団を目元まで引き上げてうなずいた。
「ほんま、格好悪いっすわ……」
差し出された薬と水を受け取り、飲みながらぼそぼそとみっともない弱音を零す。
「せやけど、光はんも学んだやろ、暑い日ぃはジャージ脱いだらええって」
「でも、……」
「脱がれへん理由があるん?」
見上げて目が合う銀は優しい、優しく笑う。既に着替えた制服のスカートのポケットから、何かを取り出して握り、布団の中の財前の手に渡した。小さい、包みの。
布団から手を出して見ると、和紙に包まれた、
「……お菓子?」
「和三盆てご存知かいな?」
「砂糖」
「せや、それあげるから、代わりに、この銀に悩み事を教えてくれへんかな」
菓子をもらうのも、相談するのも財前なんて変な話だ。優しいばっかりの銀に、財前は眉を寄せた。優しくされるとワガママなんて言いにくい。だった子のようになってしまう。
「……ちょお、汚してしもたんです、スコート。替えも用意なかったし、いっそスパッツでええかなって思ってたんですけど、……先輩が」
「どの先輩?」
「忍足先輩が、部長に、スパッツでうろうろするのはアカンって怒られてたの思い出して、したらジャージしかないなあって……」
銀は「ふむ」と一つ溜息をついてから、
「止むを得ない事情やし、それでもっと具合悪なったら元も子もないやろうに……誰ぞに借りるんは、選択肢に無かった?」
「忍足先輩にアホやて笑われそうやし、それに……遠山に忘れ物多いで、って注意した直後やってんもん。」
搾り出すように白状した財前の頭を、銀の手がゆっくり撫でる。
「先輩やもんな」
「……うん」
「今度そういうことあったら、こっそりおいで、銀が何とかします」
「はい」
良い子、と髪を梳かれ、財前もふわふわした気持ちになって目を細める。と、ばーんと勢いよく戸が開き
「ああああ!銀!何やねん自分、そら抜け駆けやろ!」
と、煩いことこの上ない謙の声がした。
「抜け駆けて」
「やって、そんなん、ん~~っ!財前の餌付けとか、今、うちがしとるとこやのに!ずっこいやろ、銀!横入りせんで!」
ぶーぶー文句を言いながら、財前の上にばらばらと苺の飴が零される。
「先輩、これ餌付けですか?何ぼ何でも杜撰すぎるやろ」
財前が眉をしかめると、謙也はぷーっと膨れて地団太を踏む。
「またそういう顔するし!もう!」
「謙、煩いで、廊下まで丸聞こえやわ」
溜息交じりの白石の注意に、謙はまたむくれて、「もお、何があかんのかな」と零した。そんなんだから、財前は絶対にこの先輩に弱音は吐かないと決めているのに、ちっとも伝わらないらしい。
謙が教室から持ってきてくれた荷物を受け取って、制服に着替える間、カーテンの向こうに銀が待っていてくれた。
「謙が来ると、元気になるなあ」
とこそりと笑われて、「秘密にしとってください」と財前は難しい顔のまま答えた。
謙がまっすぐ好意をぶつけてくるから、ちゃんと出来た後輩でいたいと思うし、甘えたくないと思う。そんなの、財前の可愛くない意地なんだから。
銀は「ふふ」と笑ったから、それが返事だったのだろう。