寮の一室、長い夏休みを前にして荷造りをしていると、戸を叩く者があった。冷房器具もない部屋でのどうにも進まない作業に、さすがの銀も飽き飽きしてきたところだったので、良い気分転換だと思い襷をしゅるりと抜きながら帯に挟んだ手ぬぐいで汗を拭いた。
「どうぞ」
声を掛けると、そろり、と真っ白の袖のないワンピースを着た白石が姿を現す。肩に付くくらいの髪を結う事もなく、首筋を汗が伝うのが見えた。外はまだ暑いのだろうと知れる。
まだ三時、涼しくなるはずもない。
「銀、今ええかな」
首を傾けて伺う様子は、常の白石よりも何だか心細そうに見える。銀は窓の外をちらりと見やって天気が崩れそうにないのを確認し、
「ええよ……白石はんが嫌いやなかったら、近所に美味しい水菓子出すお店があるんやけど」
と誘った。白石もすぐに気遣われたことに気付き、
「おおきに」
と返した。帽子も被らずに家から出てきたという白石に、予備の黒い日傘を貸して、自分はいつもの白いものを差す。一歩外に出るとじりじりと肌を焼く日差しに少しだけ怯み、それから、普段の白石なら絶対に焼かれながら来ないだろうと考え、彼女の心持を思った。
「銀はいつ帰省するん?」
「今夜の十九時の新大阪で帰る予定でおるよ」
「したら時間あるんやな、良かった、邪魔したかと思ったわ」
学校からほど近い寮から、商店街の方へ歩いて十分もない甘味屋は軒先に申し訳程度の傘を出して席を設けていた。
「……カキ氷以外に選択肢はないも同然やなあ、ところてんでも溶けそうや」
「申し訳ない」
「ええねん、どこにおったって暑いんやし外のがまだ健康的やわ」
絶対に焼かない真っ白な肌で良く言う、と銀は思ったが、笑って頷くに留めておいた。今日の白石は、よりによってその肌を晒してやってきたのだ、余程のことがあったのだろう。
それぞれ宇治金時と苺ミルクを注文し、辛うじて日差しが当たらないだけの温い席に腰を落ち着けた。真っ赤な敷物は風を通さず、じわりと蒸れる。梅雨明けより前に母親が誂え寄越した混麻の浴衣でも暑くて仕方がない。
西日の強いこの時間に、他に客はなく、店主はほどなくしてカキ氷を盆に載せて持ってきた。
「銀」
すぐに口に運ばねば一瞬で溶けて無くなりそうな氷菓子を、白石は二口三口ほど掬ってから、助けを求めるような声で銀を呼んだ。
「はい」
「さっきな、部長が来て、次の部長はうちやって言うたんや……どう思う?」
「それは……」
現部長の事実上の引退は、もう目の前だ。全国大会も終わり、地方に実家のある者は帰省の準備をするこのタイミングで引継ぎの話が出るのは妙なことではない、ないが、白石や銀はこの学校に入って一年目の夏、まだ部活の在籍も半年に満たない。
「銀は、白石はんへの絶対の信頼やないかと思います。部長はんかて、一応は三月まで居てはるし、部長の仕事も二年になってからやと思うけども……白石はんは、怖い?」
「ほんなん、怖ないほうがおかしいわ、うちはまだ年間スケジュールも把握しとらん、いっこ上の先輩らの中にやって部長務まるひとはおるやろ」
普段は見せない、幼くむくれた横顔に銀はそっと笑った。それでずっと考えて、迷って迷って、傘も差さずに炎天下の中、銀のもとにやって来たのだろう。
銀へ話したって、背中を押されるだけだと知って、来たのだろう。
「白石はん」
「ん……」
「銀は、白石はんが適任や思います。やって、白石はんは、半年もおらん自分自身より、部長はんの判断のが信じられるやろ?その部長はんが、白石はんに継がせたいて言うてはるんやから、信じてええんやなかろうか」
さく、さく、とガラスの器の中の氷を混ぜるだけだった白石の指がぴたりと止まる。蝉の声がわんわん鳴って耳が痛い、こんなに喧しくては、今の白石の声が聞こえないのではなかろうか、と銀は少し緊張した。
自分の考えが間違っているとは思わない。白石は聡い。白石は強い。白石は信頼に値する。一つ上の先輩層にも受けはいいし、誰も彼女を僻んだりはしないだろう。
だが同時に、白石は……自分たちはまだ幼く、同時にまだ脆い。
「銀の言うことは、とんちみたいやね」
「ふふ、寺の子なんぞ、みんな、こないになりますわ」
「門前小僧?」
「似たようなもんです」
白石はそれきり黙ってしまったが、悩んでいる様子ではなかった。吹っ切れたのなら良かった、と思う。
だいぶ溶けてしまった器の中身を、白石は自業自得だというように諦めた面持ちで見つめ、真っ赤な水を行儀悪く啜った。銀も緑色の水を匙で掬い、器をあける。
「銀、ここはうちのオゴリや」
「そんな、悪いわ」
「ええねん、ただの悩み相談やし。そんかわり、東京土産期待してるわ、それでおあいこにしよ」
どうも譲らない雰囲気を感じ取って、銀は頷く。少し強引なくらいで白石らしい、それを取り戻したのならもう大丈夫だろう。
白石は二人分の会計を済ませて、家路へ着いた。傾きつつある西日の中、銀は放置してきた蒸し部屋の中の荷造りを思い、うんざりするも、別れ際の白石の決意を固めた眼を思い出せば何てことはない。