謙也は時々「くさい」と言われてしまう。
女子は気を使ってか「変なにおい」と柔らかく表現したりするが、その顔は素直に眉根が寄ってしまっているから、実際はくさいと思っているのだろう。
そういう時、謙也は「うち、変なもんようさんあんねん、悪いなあ」と笑って言う。間違いではない、変なお香とか料理とか、おおよそ日本の一般家庭とは違う 匂いがするわけだ。さすがに小学校の低学年の折りに言われた時はショックだったが、考えてみれば不思議なことはない。謙也だって仏壇がある家に行けば「変 な匂い」と感じるのだから、それと一緒だ。
医者である父親は病院で患者さんに何か言われたりしないのだろうか、と少し気になるくらいで、謙也にとってそれは大した障害ではなかったのだ。
初めて後輩の財前を自宅に連れてきたとき、運悪く母親がアロマを焚きに焚いていた。黒の重たい門扉を開けて玄関のドアに手を掛け、ほんの少しだけ開けただけで気付いてしまうのだから中はもっと凄いことになっているに違いない。
「財前」
玄関脇の大きなプラタナスの木を見上げている財前はいつもよりずっと子供のように見えてしまって、その彼には先に忠告をしておいてやらないと可哀相だろうと思って呼びかけた。
「はい?」
「ごめんやで、ちょっと今、」
「あ、どうしてもっちゅーわけやないし、したら帰りますわ」
何だかよく分からない潔さを持つ財前は、家に入れられないのかと勘違いをして回れ右をするところだった。
「ちゃう、ちゃうくて、うーんとな、オカンの趣味が炸裂しとんねん」
「はあ」
ストレスが溜まると料理をしまくったり、庭の世話をしまくったり、そういう極端なところがある母親が、今日はアロマを焚いている。それだけ。だけど、匂いに関しては周囲への影響があることを謙也は子供の頃から知っている。
「せやから、覚悟してな」
ドアを引いて財前を通すと、財前は訝しげな目を謙也に向けた後で何かに気付き(何か、は、匂いのはずだ)、しきりに瞬きをした。
香草が苦手だという人がいる。香り物は全般ダメ、という人もいる。願わくば財前がそうでありませんように、と柄にもなく他力本願で思ってしまうのは、彼を自宅に招くに当たって謙也も緊張をしているからだ。
目を細めて匂いを特定しようとしているらしい財前は、すん、と鼻を鳴らしてから
「謙也さんちの匂い」
とだけ言った。
「そか?」
「謙也さん、時々こういう匂いしてますわ……これやったんか……」
ほとんど独り言のように言って、財前は謙也を待った。どうぞ上がって、と言うと大人しくその通りにしている。
自分からする異臭(と言うと何だかとても悲しいイメージだけど)に対して、財前はプラスでもマイナスでもない印象を持っているらしく、リビングへ通されると「やっぱりこの匂いや」と確かめるに留まった。
素直な財前のことだ、「くさい」くらい言われると思っていたし、その覚悟もしていたのに、と拍子抜けしながらも、キッチンにいる母親に声をかける。
「おかーん、後輩来たから!」
「ただいまが先やろ」
「ただいま!」
謙也を窘めてから姿を現した母親を、財前はぽかんと見上げて(何せ母親の方が幾分背が高い)、
「お邪魔します、テニス部二年の財前です」
と彼にしてはぼんやりした挨拶をした。
ストレスが溜まっているに違いない、と思われた母親は財前に笑いかけて「あらええ子やね、コーヒーいける?お茶とどっちがええ?」と返したから、きっと機嫌は悪くないのだろう。
もう夏も近いというのに母親はホットのカフェオレを二つ用意し、「ごゆっくり」と自室へ引いていった。
「……冷たいお茶もあんで」
「や、ええです」
ソファが気に入ったらしい財前は、クッションを抱え込んでカフェオレを冷ましながら飲んでいる。財前が自分の家で寛いでいるのを見るのは何だか不思議な気がする、と謙也はわざわざ向かいに座って見やった。
「謙也さんちは謙也さんっぽい」
「ん?」
「匂いとか、おばちゃんも、謙也さんちやなーって思いますわ」
例えば母親を見て、モデルさんみたいとか女優みたいとか言う同級生はいたけども、「謙也みたい」という括りにした奴は居なかったと思う。
母親の事を黙っていたせいで無視をされた身だ、随分構えていた割にあっさりした反応で、少し拍子抜けする。
「……せんぱい?」
「や、何でもないわ。上手いこと言われん」
好奇の目に晒されるのは慣れているし、それで嫌な気持ちになったこともない。むしろ目に留めてもらえることはラッキーだ、くらいに思っているし、親にもそう言われてきた。言いはしないが親を誇りに思う。恥ずかしいようなものじゃない。
それでも、財前が謙也を通して謙也の世界を見ているのは、他の何とも換えがたい奇跡のように思えた。大げさかもしれない、でも謙也が触れ合った他人の中で、こんな人は他に居なかったのだ。
初めて家に呼んで「君は奇跡だ」なんて言うわけにもいかず、謙也は困り果てて少し笑った。泣きたいような、変な気持ちになって、それから財前を抱きしめたいような気持ちになって。
言葉を失って、ただマグカップに口をつけるだけの謙也に財前は微かに眉を寄せたが、特に文句を言うでもなく質問もなく、家の中の調度品や、窓越しの庭を見ている。
夏待ちの温い風が部屋に吹き込んで、ぼんやり窓を眺める財前の前髪を揺らした。うっすら生え際に汗が浮いていて、暑いだろうにマグカップを離さない財前が何だかとても可愛い生き物に見えて困る。もっと捻くれていて、もっと口が悪くて、もっと生意気だと思っていたのに。
「せんぱい」
二人しか居ない部屋で声を張る必要もなく、財前の声は緩く謙也に向けられた。攻撃される事もする事も考えていない、財前の内側から出ている声だと思った。
「ん?」
「俺、この家、割と好きっすわ……」
とどめだ、と謙也は思う。
好きなものをわざわざ人に言うような奴じゃないと思っているから、尚更に。
「したら、また来たらええわ。って、まだここに居るのに変やけど」
返事はないが、財前は浅く頷いた。謙也を通して触れるこの家を好きだと言った財前は、まだじいっと庭を見ている。