[今月のかに座]
部活の先輩、何だか距離感が近い人で感情表現がストレートだから相手はすぐに自分の立ち位置が分かる。だから居心地が良いんだろうとは、すぐに分かった。財前だってそのうちの一人だ。
特別に可愛がられているなというのは他人の目から見ても明らかなようだったが、だからと言って何がどうなるわけでもない。仲の良い先輩後輩の関係を続けていくことに財前としても不満はなかった。
変化があったのは二年生の夏頃だった。
「飲みモン買うてこよ、今なら先着四名までお使いしたるわ」
放課後の部活中にその先輩が放った限定パシリ宣言に三年生はもれなく食いつき、先着四名では済まされなかったのでレギュラーではあるものの一応下級生でもある財前は
「俺、見て決めますわ」
と小さな声で言い訳のようなものをしながら自販機に向かう彼の隣に並んだ。あっちこっちから集めた小銭をポケットに突っ込んでいた彼は、もう沈みかけた夕日を背にしてるせいで脱色した髪がきらきらに光っているように見える。財前が「余計な言い訳をしてしまった」と少し悔いているのを知らないだろうに、
「ありがとうな」
と笑った。どん、と衝撃があったような錯覚、今思えばあれは恋に落ちた衝撃だったわけだ。落ちるというか、恋にぶつかる、ぶつかられる、何だか交通事故のような感覚。
笑顔一つで恋だとか、安すぎるだろう、と自分をとても残念に思ってみても、それはポーズに過ぎない。よく合う視線、その度に気の抜けるような笑顔を向けられてしまっては深みに嵌る一方だ。
分かっている、相手はそんなつもりじゃない。他の三年生がからかい半分で言うように、自分が他の誰より彼に懐くように近い場所にいる自覚はある。だって傍に寄れば、もっと笑ってもらえる、それを見逃さずに済む。
放課後の寄り道を共にしてからの帰宅、いつも奥歯にちからを入れて変に笑い出しそうな感情を磨り潰していた。二人で寄り道なんかしてしまえば、先輩は自分にだけ話しかけ、自分にだけ笑いかけ、そうして自分しか知らないやりとりが積もり積もっていく。優越感かもしれない。独占欲からくるものかもしれない。それも、きっと慣れていないからだ、こうやって耐えていればいつか興奮も薄まって、ただの先輩後輩に戻れる。あの人は笑顔の安売りをよくしているし、自分だけに笑いかけているからって何だ、幼い甥っ子だって似たようなもんじゃないか。
奥歯をぎり、と鳴らし、不快感に眉を顰める。だめだ、喜んではいけない。思い過ごしの勘違いなんだから。
ひとしきり、暗示のように自分に言い聞かせことをもう何度も何度も数え切れないほど繰り返し、繰り返しすぎたせいで「間違いやったな、映画やらドラマやらの影響があったんかもしれん、ようわからんけど」というところに落ち着いたのは、最初の衝撃から一月ほど経った頃だった。
体がくたくたになるような練習が終わって、財前は帰ってとにかく眠ってしまいたくなっていた。着替えるのも億劫な状態で、場合によっては夕飯だって要らないと言いそうだというのに、さっさと着替え終わりそうなその先輩が「本屋行かな」と呟いたのへ、反射で「俺も」と言ってしまった。
もう、癖になってしまっているんだろう。
着いて行って内心で浮かれるのを必死で抑え、帰宅すればまた薄暗く虚しい暗示タイムが待っているのに、誘惑に負けてしまうのだ。
そんなことを知るはずがない彼は財前を見、何だか苦しそうな顔をした。いつもなら笑ってくれるところで、だ。どうしたんだろうと思っても、このタイミングで着替え終わってしまった彼は部室から出ていってしまった。
「何やねん……」
財前は一緒に行くという意思表示をしたはずだったのに、今日に限っては財前についてきて欲しくなかったんだろうか。ぼんやりと部室のドアを見て思考とも言えないループを巡らせていると、他の部員に
「財前?ほら、外で待っとるって、早よう行ってやり」
と声をかけられた。
言われてみれば謙也が部室の外で待っていてくれたことだって、今までに何度かあったのだった。思いつかなくなっている、記憶の引き出しを開ける手も緩やかになっているのは、唯一つの理由だ。
笑わなかった。ただ、それだけ。
結局彼は待っていてくれた。本屋に行く間も、着いてからも、奇妙な顔を崩さなかったけれども。
せんぱい、と呼ぶ自分の声はいつもと変わらないはずなのに、返事がもらえないこと数回、さすがに声を掛けづらい。謙也の買い物の後ろを着いて回るのも嫌になって、パソコン雑誌のコーナーで待つことにした。
そもそも「後ろを着いて回る」という発想自体おかしい。人が何をしてようが知ったことではないと思っているのに、謙也が話すどうでもいいような、取るに足りない話を聞いているような聞いてないような相槌で返すことが財前の決意やら決心やらをいちいち滲ませる。
ああもう嫌だ、と思いながらの立ち読みは何も頭に入って来ず、心身ともに疲労しているせいだ、と一層暗い気持ちになった。結局最後までページを捲ってしまい、誰が読むのかも分からない星座占いのコーナーでつい運勢など見てしまう。自分みたいなぐったり疲れた人間が、明白な原因から目を背けてトラブルを星回りのせいにするためのコーナーかもしれなかった。
かに座、仕事運も金銭運もそこそこで恋愛運が最高。ラッキーアイテムはデザイン性の高いUSBメモリ。そんなもん買ってる時点で相当なアホだと財前は軽い溜息を吐いて、三月十七日が何座なのかを視線で探してしまい、また溜息。
何かに縋りたいような気持ちになっているのは自分の方だというのに謙也の星座なんて、運勢なんて知ってどうなるというんだ。
星印が三つ、うお座も恋愛運は最高だった。そりゃそうだ、かに座だけ良かったらかに座はかに座内で恋愛成就してしまうんだから、他の星座の人だっていてくれないと。
(アホらし)
またどうでもいいことで浮かれそうになって、財前は奥歯を噛み締める。今年の春頃に部長から、奥歯に力を入れる癖を直せといわれたのは覚えているが、ラケットを握っていればどうにかなっても日常でまで実践はできない。他に、理性の外で浮かれる心情を落ち着かせる手段を知らない。
信憑性なんて無さそうな雑誌の占いなんかに背中を押されて、買い物を済ませた謙也に、今日は何か変だと言い募ってしまった。
「落ち着かん……のはいつものことやけど、さっきから人の話聞いてへんし」
「え、俺、何聞いてへんかった?」
全くの無自覚とは凄い、と思う。呼ばれて気付かない人なんてこの世にいるのかと財前は思うが、現に目の前にいるのだから仕方ない。
「何べんもするような話でもないすわ」
無視でないならいいんだ、とはやっぱり言えなかった。変な話を謙也に聞かせて余計な距離を作るのは気が引ける。
駅までの道すがら、会話は途切れ途切れになるのに、こちらを無視しているわけではなさそうで、単純に集中力が切れているだけなんだろうと推察する。上の空であることを指摘しても本人に自覚がないのだから始末に終えない。
会話の切り口は相手からだったか自分からだったか、そんなこともよく覚えていなくて、財前の集中力まで欠けそうだと思った。だから無理にでもと思ってさっきまで見ていた星座占いの話をする。
「先輩、あれやったで」
「どれ」
「金銭運が悪くて、恋愛運が最高やて、うお座」
自分より少し高い背、ちゃんと表情を確かめておこうと見上げると、また変な顔をしている。
「まあ、先輩に好きな人なんぞおらんの知っとりますけど」
ああよりによって、そっちに広げなくてもいいのに。
金銭運の話で良かったじゃないか、と瞬時に苦い後悔が始まる。後悔が表情に出て居なさそうなことだけが救いだ。
「アホ、そんくらいおるわ」
普通にしていたいのに、流したいのに、踏み出す一歩が若干遅れて、例えばここに心理行動に詳しい専門家なんかがいたら財前の心の動きなぞあっという間に解明されてしまいそうだと思った。
「うっそ、先輩がぁ?あ、ほんで恋わずらいでボケっとしとったんですか?似合てへんちゅーか、信じられへんちゅーか、……先輩が?」
思ったように喋れているか分からない。大丈夫、いつもの匙加減のはず、大丈夫。
「ほんま言いたい放題やな、自分」
ちゃんと返事はあったし、相手だっていつもの顔、知っている顔だった、大丈夫。
腹の底から冷えていく感覚をどこかへ押しやりたいのに、話題はちっとも逸れず、好きな人がいるとかいないとか、そんな方向へいってしまった。別に知りたくないのに。
自分に好きな人がいる(かもしれない)ことと、条件反射でこの人に着いていこうとすることと、それから相手の好きな人は、どれも違うカテゴリの話題であるべきなのに。
想像つかない、と返答するので精一杯だった。
「まあ自分でもよう分からん」
「どんだけ鈍いねん」
一生鈍いままで居てくれて構わないと思う自分はやっぱり、どんどんおかしな方向へ向かおうとしているように思う。磨り潰しても捻じ伏せても、結局は理由をつけて戻ってくるどうしうようもない恋心に財前は打ちのめされていた。
体力がないから、普段と変わらないようなことにも過敏になっているんだろうか。先輩の視線がきついように感じるが口に出せない。財前を映していても、財前のことを考えているとは限らないのに、何だかもう泣きたいような気持ちにもなってきて、情緒不安定もいいところだ、帰ったら何もせずに眠ってしまおう。
近隣の学校の生徒でごった返す駅は、ひっきりなしに他人の会話が耳へ流れ込んでくる。ちょうどいい、と財前は思った。どうせ自分のことも相手のことも、もう分からなくなってきたんだから、他の音に支配されている方がましだ。
「友情との境目が、よう分からん。近すぎるからやろなあ」
現実とはよくよく財前の思い通りにならない。結婚した兄が兄嫁と実家に居座ると言い出したときと同じくらいに絶望した。(要するに、とても浅い絶望ではあった)
「……そーゆー話は、部長なんかとしたらええんとちゃいます」
うんざりした声は演技ではなかった。自分自身へのガッカリした気持ち、それが声に乗っただけだ。ああもう聞きたくないのに、この人が話をすれば自分は漏れなく耳を傾けてしまうのだ。
「嫌や、あいつ絶対笑いよるもん」
「俺かて別段役に立たんと思いますけど」
「相談ちゃうし」
「相談ちゃうかったら何ですか」
もっと話して、と思う。これ以上聞きたくもない、とも思う。矛盾は財前を疲弊させ、棘のある言葉を口から吐かせていた。
珍しい話題なんだから、きちんと聞いておこうと思ってはみるものの、あまりに自虐的すぎる。
だから、電車の時刻表を見ながら相手が呟いた
「……ええねん、お前は口悪いけどええ子やって知っとるし、俺んこともよう分かっとるし」
という台詞に、財前は間に合わなかったのだ。奥歯を噛み締める事も、握りこぶしを作って手の平に爪を立てることも、何もかも間に合わず、口元が不恰好に歪んでしまった。
情けない。たったこれだけの信頼が、死ぬほど嬉しいなんて、酷い。そう言われたらこれが恋だなんて口が裂けても言えない、違う恋なんかじゃない恋なんて有り得ない。
慌てて俯くも顔に血が上っていく感覚に、体があっさり財前を裏切ったことを知った。
一ヶ月、もう一ヶ月もかけて無いような素振りができるようになっていると思ったのに、少し言葉を掛けてもらったらこれだ。
死にたいと心中で悪態をつくのに、それよりもっと強く、「先輩は俺をええもんだと思ってくれてる」という悦びが暴れまわっている。
洪水に飲み込まれるような感覚の中、やっぱり視線が突き刺さるのを感じたが顔は上げられなかった。自分はきっと気持ちの悪い顔をしているに違いない。
「……照れすぎやろ……」
と、また落ち着かなくなるような声が降らされて、財前はちゃんと何か答えたはずだったが、よく覚えていない。
もう、恋でもいいか。
他愛ない一言でここまで舞い上がったりできるなら、これが恋でもいいんじゃないか。無理やり殺さなくたって、勝手に死んでいくかもしれないんだから、今はこれが恋だと認めてしまってもいいんじゃないか。
幸いにも隣に立つ人はお人よしだ、財前がひっそりよからぬことを考えているくらい、見逃してくれるだろう。どうせ表に出るようなことはないのだし、財前を信用してくれているようだし。
勢い任せの密かな決意は、当の本人が隣にいては固まらないと思って、財前はその背中だけホームにやってきた電車に押しこんでやろうと思った。
「先輩」
財前が着いてくると思っているだろう相手は振り向かない。
「友情との境目は」
あんなに苛々した、頭がぐにゃぐにゃになってしまうようなほど不安になった財前の恋心だけど、それならいっそ崩れるまではこの気持ちに向き合ってしまおうと決めて、
「そいつで抜けるかどうかやと思います」
慌てる背中を見送った。
調子に乗った財前の冗談を彼がどう受け止めるか知らないが、きっと彼の中での財前はそう悪いものではないだろうから、もう、これは恋でいいのだ。
『電車ん中でめっちゃ笑われたっちゅーねん!アホ!』
とストレートに怒られても楽しいだけ、嬉しいだけで困る。感情のまま心を明け渡すと、こんなに楽になれるのかと驚くばかり、そのままのテンションで他愛の無い返信を送ると
『言うとくけど、お前の話やからな!お前でぬけっちゅーんか』
と返ってきて息が詰まった。詰まったついでにコンクリートの地面に携帯を落とす。自分にしては中々コミカルなリアクションを取ってしまったのだが誰も見ていないし、もちろんツッコミだってない。
俺の話?
俺で抜く?先輩が?
直後に「今のナシ」と追加がきたけど、そんな後始末じゃ何も拭えない。自宅に帰るだけなのに足が震えそうになって困る。信号の色は見てもよく分からなくなっているし、つまりもう、そのことで頭も胸もいっぱいなのだ。
彼が財前にいやらしいことをされる妄想を、あるいは財前にいやらしいことをする妄想を。
好きだと感じたことは何度もあったし、恋かもしれない、とは呪いのように考えていたけれど、自分が彼の性的な対象になるとは一度たりとも考えた事がなかった。いや問題はそこじゃない、そこじゃなくて、財前との友情を恋かもしれないと、相手も考えていたこと。
そして、もしかしたらいわゆる両思いというやつなのかもしれないということ。
日頃から奥歯を噛む癖がついていて良かった、注意してくれた部長には申し訳ないが、この癖がなかったら今頃叫びだして走りだしそうなくらいなのだから。
心臓はうるさいし、指先まで熱い気がするし、到底正気でいられない。
めまぐるしい展開にまったく脳みそがついてゆかず、結局そのメールに返信をしたのは、自室で三時間眠って味の無い夕飯を食べた後だった。
『俺で抜けたら教えてください』
夕飯の後、さらに一時間かけて作ったメールは、財前の欲望をストレートに表していて自分でも少し引いたけども、でもそれが知りたい。冗談で返してくれてもいい、怒られてもいい、ただ好意だけを隠さないでいてくれたら、それだけでいい。
「意外と占い、当たるやんけ・・・…」
数時間後、『すまん、余裕でいける』というメールが来て、財前は夜明けを携帯を持ったまま一睡もせずに迎える破目になった。